凝縮された一日    〜卒業式の日に思う〜

卒業式に思うこと ① 呼称について
 
 今日は小学校の卒業式のようです。校門の前に立て看がおいてありました。

卒業する子どもたちにとって、その保護者の皆さんにとって、担任をはじめ、子どもたちと関わってきた教職員にとって感慨もひとしおの行事です。

 看板には「卒業証書授与式」と書かれています。

 「授与式」という呼称が強調され始めたのは、ちょうど「日の丸・君が代」問題が起こり始めたときからだと記憶しています。「儀式」だから「掲げ」「斉唱」するのは当然だという論拠でした。(法制化される前のことです)
そして、「儀式」なのだから全員前を向いておこなわなければならないと、いわゆるコの字型に座席をしつらえ、全員の顔が見える式という当時の主流の式場が変わっていきました。
中には「たくさんの合唱をいれてはならない」など中身もずいぶんと変わル事を余儀なくされました。
 そこから「起立しなかった」「歌わなかった」から処分するということにまで進んでいくわけですが、ほぼ「力技」でした。

「卒業式」と「卒業証書授与式」
中身はいっしょだろ?違わないでしょうと思われるかもしれませんが、こういう流れの中で変わっていったことです。ただこの文字の持つ意味合いも全く違ったものだと思います。
「卒業証書授与式」とは、卒業証書を校長先生が君たちに「授与」してあげる式なんだよとなり、「卒業式」は完全に子ども目線で、「私たちが卒業する最後の授業」という意味づけになります。
 単なる呼び方ではなく、立場・目線・主人公・意味合いすべてが変わってしまうのです。

 最近の卒業式がどんなふうだかわかりませんが、「子どもが主人公」の姿は残っているのでしょうか。

 看板を見ながらそんなことを思い巡らせていました。

 

卒業式を思う ② 子どもたちについて A 初めての卒業式

 長い教師生活の中で、低中高学年を比較的まんべんなく担任させてもらってきました。その年々で思い出深いものはありますが、「卒業生を送り出す」ことはそのどれよりも感慨深いものでした。
 
【最初の卒業式】

先生になって三年生の担任となり、クラス替えもありながら引き続き担任することで四年間受け持たせてもらった子たちがはじめの卒業生でした。今はもう52才〜53才になる子たちです。ここ数年の間に同窓会などで顔を合わせたり、FBで交流できていることに喜びを感じています。

 四人の担任ともまだ二十代、私が一番若くて26才のころです。「自分が正しい」と突き進むばかりの若い教師を、親御さんたちは暖かく見守っていただいてました。
 雪が降れば雪合戦
 夏まつりにはギターと太鼓
 アルバム用職員写真ではジャージ姿

 式当日まで「先生は絶対泣かはるで。」と先生たちの中で当然のように言われていたそうです。自分もそう思っていましたが、当日は泣くことなく送り出しました。式の最中「これはリハーサルなんや。」と思い続けてこらえていました。
3・4年生の時お世話になったM先生は「意外やったけどようがまんしはったねえ、」と声をかけていただいたものでした。

 アルバム見返すとただただ恥ずかしさや反省ばかりもたげてきますが、卒業式だけでなくすべてにおいて「先生」としての基礎を教えていただいた貴重な時期であったことに間違いのない四年間でした。

 

卒業式を思う ③ 子どもたちについて B 最後の卒業式

 突発性難聴で定年前退職する一年前、最後となる卒業生を送り出しました。私は57才の時のことです。
 今その子たちは22才〜23才。四年制大学に行っていた子たちも含め、四年制大学に行っていた子たちが「社会人」として新たなスタートを切ります。 すでに社会人として歩んでる子たちと合わせ、ほとんどの子たちが自立と責任の道を歩みます。 厳しい世界とは思いますが、あの子たちの明るさ・優しさがあれば きっと乗り越えてくれるだろうと確信しています。

 最後の6年生を受け持ったとき大きな悩みを抱えていましたが、彼らに救われ、保護者のみなさんに助けていただき、終えることができたのだと今でも思っています。
 「先生の考えを押しつけない」ことを頭に置いて接してきたつもりでいます。いろんな経験をして「自分らしく」やることだと思い、それを受け入れてくれた二年間だったのが本当に充実感につながりました。


 この時の卒業式でも式の最中は泣きませんでした。退場の時「先生ありがとう」と声が届いたときにはさすがにあふれてきましたが・・・・

 

 

 10年経って、あるいは40年たってなお忘れることのない、それほど凝縮された一日が卒業式の日なのだと改めて思いました。